1からネットワーキング

2012年6月上旬、シアトルからJFK空港へ片道チケットで着いた。社会での実用性があまりない国際政治の修士を取得したばかりで、所持品はダッフルバッグ2つ、スーツケース1つ、そしてパソコンのみだった。

住居と仕事、共に当ては無かった。

まともな人なら、気が狂っていると言う所だが、私は自信満々だった。ニューヨークでキャリアを積む気でいた。

10カ月と言う短い期間で、読売新聞国連担当という職を見つけることが出来た。この間、色々なバイトをこなしながら乗り切った。

ネットワーキングを通して、日米関係と多彩な世界の実力者と強い関係を築いた結果、成功を手にした。

自信の元は?

1から、知り合いのいない新しい環境で、根強い、楽しい、そして信頼感のあるネットワークを築き上げるのは何度も経験済みだったからだ。日本で、シアトルで、モントレーなどで。

私は自称、「世界間大使」。ネットワーキングが生活の基盤にあった。多彩な人物・コミュニティをナビゲートし、関係を築いていくのは、幼少時代からの蓄積してきた私の宝物、成功の証は今までの積み重ねの賜物だ。

私はまず、ニューヨーク市内で、できるだけハウスメート数が多い場所を探した。入居したのはブルックリンのブシュウィック、10人ほどが住んでいて、全員、私と歳も近い。

私「今無職だけど、貯金はあります…」

マネージャー「なら2カ月契約にしよう。ところで、あんた、どこ出身なの?マジ日本?」

住居の条件は申し分ない。20代後半、30代前半の学生・社会人と共同生活。裏庭もあり、パーティーをそこで開くこともあった。

入居当初、仲が良くなるまで、こんなエピソードもあった。

昼寝中の私に、私の噂が耳に入ってきた。

「何、この日本男?」

「作り話に決まってんじゃん!」

昼寝から起きて、日本永住権が記載されているパスポートを彼らに見せた。皆驚いたが、最後には仲良くなれた。

すぐネットワーキングを始めた。私はプロフェッショナルをサポートする団体のメンバーになったり、ミートアップという社交グループの一員にもなった。

ニューヨーク社会に身を投じた。日米関係のプロ、国連大使、銀行員、政府高官、私のネットワークは徐々に、数・質とともに広がり始めた。出会った人には必ずメールを送った。その後、補足メールも。リンクトインを積極的に使い、ネットワーキングのイベントは出来るだけ出席した。

こうした努力の甲斐があり、ワシントンにある米外交問題評議会上級日本研究員シーラ・スミスさんが会ってくれた。ミーティングは大成功、シーラ・スミスさんが当時のマンスフィールド財団デービット・ボーリング副所長さんに紹介してくれた。マンスフィールド財団は、元米上院議員、そして日本大使を勤めたマイク・マンスフィールド氏が築いたアジア・米国関係の財団だ。

財団本部でお会いしたデイビッドさんは背が高く、存在感もある。

「今日会って頂きありがとうございます…」

「シーラの頼みだからね。」率直に答えてきた。

会議室は私とデイビッドさんだけ。

私の履歴書に目を通した後、会話が日米の法律や弁護士へと話題は移っていった。デイビッドさんは元弁護士。キャピタル・ヒルでの職歴がある。ミーティングの前に、当然のことだが、彼の経歴を調べていた。

デイビッドさんは「アメリカは弁護士が多すぎる反面、日本は数が足りないのが現状だ。」

「アメリカの余分な弁護士を全て日本へ強制移動するのが得策では?」と私はジョークで切り返した。

デイビッドさんは笑い出した。

「君がリアル・ディール(本物)だ。君を何人かに紹介しよう。我が財団は今空きがないが、ワシントンに来たら、また会いに来なさい。」

ワシントンは月に2回、ニューヨークでのネットワーキングを続けながら行き始めた。何ヶ月後、また、デイビッド・ボーリングさんに会いにいった。私のそこまでの成功の積み重ねを話した。

デイビッドさんは興味を示し、「読売新聞への紹介状を書いてくれる」と言い、そこから私の国際社会でのキャリアが始まっていった。