読売新聞に世界を

マンハッタン、ミッドタウンでの面接で、私は読売新聞社員3人に囲まれていた。そのうちの1人は後に私の先輩となる加藤さん。当初英語で始まった面接が、いつのまにか日本語になっていた。

支局長が「履歴書に日本語が流暢に話せる、と書いている人は結構いるんだけど、ほとんどの場合面接すると誇張しているだけで話せないのね。」私は明らかに例外だった。日本語で話し始めたら、皆ギョッとした。日本のエリートが働く読売のベテラン記者でさえ、これほど日本語が流暢なアメリカ人と話す経験はあまりなかったようだ。

面接が終わった時、難問を投げて来た加藤さんは、緊張していたか、と聞いてきた。「それはもちろん!そう見えませんでした?」私は躊躇せず答えた。

「いや、見えた。素晴らしい。」私の答えを気に入ってくれたようだ。

リフレンスを提出して、数日後、読売から電話がきた。私は読売新聞の国連記者として入社が認められた。

仕事は次の月曜日早速始まった。加藤さんは私を会議室に連れて行き、読売からの期待がどんなものか説明した。

「君の主な任務は北朝鮮の年次極秘報告書を入手すること。国連で最もガードが堅く、入手が難しい。前任の国連担当は結局入手できなかった。ここ数年読売は共同と朝日に負けが続いている。両社とも国連での情報源を確保している。俺は、君の好かれやすい性格と過去の営業の実績をかって雇った。そして日本語も話せる。」

「君に期待している。」

私の2年間に及ぶ国連での冒険が始まった。

1年目はあまりうまくいかなかった。

仕事初日、加藤さんに国連へ連れていかれた。私の国連パスを入手した後、新しい仕事場を紹介してもらい、私を置いて支局へと戻った。私はその時点では、国連で知り合いは一人もなく、ジャーナリズムも無経験。1年前、読売の初めての外国人記者がヤクザのことを書いた『トウキョウ・バイス』を読んだ程度だった。

まず、私は外交官、イギリス、フランス、アメリカ、レバノン、そして国連職員、会ってくれる人は全て会った。そうすると、国連メディアには上下のランクがあるのが見えてきた。トップメディアはニューヨークタイムズやロイター。扱いがいいだけでなく、外交官は自主的にこういったメディアに情報を提供していた。このトップメディアのジャーナリストは自分たちの国連内での地位を態度で表して、隠さなかった。

日本メディアは中の下。また、日本は国連に10社ほどのメディア置いていた。加盟国の中では一番多い数だ。読売の影響力が日本では強い、といっても、外交官にはどうでもいいことだった。国連外交官のほとんどは、「日本メディア」を概念的に一つとして認識し、私はその一員として扱われた。門前払いや電話を会話中切られるなど、厳しい扱いだった。

読売新聞は日本メディアの中でも最も激しいとして知られていた。私が当初情報源を見つけるのに苦労する中、加藤さんは私に対して、その評判に見合った態度だった。

「一体何やってんの?」先輩の不満は、読売新聞の国連内の地位は思っていたほど高くなかったところからもきていた。加藤さんはニューヨークに来てまだ間もなかった。

そして、国連に合わないアドバイスをした。

日本国内では、読売の記者は情報を欲しがっている時、相手がうんというまで10分おきに電話することで知られている。また、他人の仕事場へ直接足を運んで情報を要求することでも知られている。

こういった行動は、読売新聞が日本国内の揺るぎない地位と知名度のため許される。しかし、国連ではそうはいかなかった。加藤さんは私に、読売ならではの伝統に従った行動を実行しろ、と要求して来た。私は外交官に何度も電話し、国連高官のオフィスに無断で入った。私の国連での評判はスタート時点で悪くなってしまった。

2014年初め、ある夜の午後11時、加藤さんが電話して来た。北朝鮮制裁委員会の年次報告書が回り始め、競争相手がそれを入手することに成功した。加藤さんは焦っていた。

「どんどん誰にでも電話しろ。」しかし、結果はダメ。1年目、報告書の入手に成功しなかった。朝日と共同にまた出し抜かれた。

しかし、私はやめる気は毛頭なかった。

しばらくして、報告書が一般公開された。それに伴って、韓国代表部が記者会見を開いた。

加藤さんは私にレポートを読むよう指示して来た。何百ページもあり、詳細に詰まっている。私は時間をかけ、最初から最後まで読み上げた。

記者会見では、韓国国連大使と一緒に、北朝鮮制裁委員会委員長、そして外交問題評議会朝鮮半島の専門家が出席した。国際メディアと外交官も出席した。世界中、テレビやネットを通して、数知れない多くの人が見ていた。

スピーカー達の説明が終わり、質疑応答に移った。私はこのチャンスを逃す気は無かった。

幾つかの質問の後、手を挙げた。選ばれなかった。加藤さんは私の隣に座っていて、目に見えて緊張していた。

また私は手を挙げた。そしてまた。とうとう、ついに選ばれた。

「私はマシュー・カーペンター、日本の読売新聞の記者です。先ほどあなたの説明では、国際社会からの委員会の活動への協力が過去15ヶ月間に増えている、という話でした。今回の報告書には、輸入/輸出の貿易業界は一般的に安全保障理事会の北朝鮮に対する制裁の理解がかけている、と書いてあります。私の質問は、国際社会の協力が過去15ヶ月間に増えているのならば、貿易業界の制裁に関する理解も高まっているのでしょうか。そうでなければ、何をしているかです?」

「ありがとうございます。」

加藤さんは頭を低く、深く、と揺れて下げた。一瞬、「私は悪い質問をした」と思い、パニックになったが、委員長の反応を見て、何かが違っていることが起こっていることを実感した。委員長は、緊張した声で話し始め、態度から自信が失せていった。

記者会見後、加藤さんに質問を気に入ってくれたかどうか尋ねた。先輩はただうなづいただけで、答えてくれなかった。

しかし、その後のレセプションで、ベテランのジャーナリストは私がこの会見で最も質の高い質問をした、と祝福してくれた。外交問題評議会朝鮮半島の専門家に自己紹介したところ、彼は私を睨み付け、「あれは難しい質問だった」と言った。

私の国連内の評判は1晩で変わった。私はより多くの質問をし始めていった。

国連で、私は質の高い、難しい質問をする、という認識が広がり始めた。

国連での国際社会から私への態度が別のものになったと実感したのは、アラブ諸国連盟国連大使から昼食会への招待が来た時だ。招待された記者10人ほどのうち、日本メディアの記者は私だけだった。

私は15分ほど早く着いた。大使はもうすでに部屋にいて、静かに私のところへ歩いて来た。私の目を見て、自己紹介せず、「第2次世界大戦後の中東と東アジアにおける米国の外交政策の違い、その違いが由来する点は」と聞いて来た。

私は試されていた。

緊張しながら、「アメリカは東アジアの国々を、海路を守るため同盟国として工業化し、中東内では主権を握る国家が現れないよう勢力の均衡を保つ政策を実行し、違いの由来はロシアの脅威の存在…」と答えた。

大使は頷き、無言で席に戻った。私の答えに満足したかどうか、分からないまま、昼食会が始まった。

外交官は私を真剣に扱うようになった。

この時期、読売幹部は水野さんを加藤さんと入れ替えた。水野さんが到着する頃は、私の仕事ぶりは伸びていた。一面の特ダネを幾つか取り、結果を出していた。アイシスの資金調達に対するロシアの決議案は、ニューヨークタイムズやロイターよりも早く入手した。

質問をするのが楽しくなって来た。私の質問の答えは、たまに世界規模でニュースになることもあった。

国連総会を担当した主任建築家が、再建工事終了後、国際メディアのためツアーを行った。私は彼に尋ねた。「席に関して質問があります。近日中スコットランド独立選挙があります。これから現れるかもしれない加盟国の予備席は用意してありますか?」

「いい質問じゃない!」ニューヨークタイムズの記者は感心していった。建築家は、微笑み、ためらって、間を置いた後、国際メディアに現在存在する加盟国は193カ国だが、国連総会は206席用意してある、と答えた。記者全員、携帯電話を取り出し、その場で世界中に国連総会はまだ存在しない加盟国13カ国の予備席がある、と流した。

国際メディアからのジャーナリストは、私の世界情勢に関する分析を問い、それを記事に取り入れ始めた。例えば、パス・ブルーの創立者とライターが、私になぜサマンサ・パワー米国連大使が、元ジャーナリストなのにもかかわらず、記者会見に出席しないか、コメントを求めて来た。私のコメントが多く記事に取り入れただけではなく、この記者は米国国連代表部が私に「マシューからの電話は必ず取るよ」といってくれたことも書いた。

米国国連代表部の副報道官は、この記事を読んで神経にさわり怒った。私はパワー大使は多分ホワイトハウスの指示によりメディアを避けている、と見ていた。国連内で私に走りよって来て、私の顔に指をさし、「興味深いコメント」だと怒鳴って来た。しかし怒りが収まった後、彼は私の米大使に関する分析が記事内で最もフェアーなものだと認めた。そこで私は、「俺の分析、正しかった?」と聞いた。何秒か沈黙が続き、そして結局は答えてくれなかった。しかし、体でのリアクションを見て、彼は口頭では認めないが、私の分析は的をついていたのだろうと思えた。

その瞬間が訪れた。北朝鮮の年次報告書が回り始め、ロイターがすでに入手し記事を書いていた。水野さんが電話して来た。口調がいつも以上に真剣だった。

まずベストの情報源に電話した。この人は私が求めていない文書を送って来た。

再度電話した。2回目、見事、北朝鮮の年次報告書を渡してくれた。読売がここ数年入手できなかった文書だ。

私の国連での2年間、人生で最も幸せではなかったが、最もスリルある2年間だった。私の競争相手全て、読売新聞が国連で持ち合わせていない情報源、または地位を確保していた。2年間という短い時間で、戦争やジェノサイドで殺し合うほどお互い嫌っている国々を代表する外交官、国連官僚、ジャーナリストに囲まれながら、日本の競争相手だけでなく、欧米のトップ組織、ニューヨークタイムズやロイターに勝つこともあった。

私の働きぶりと熱意は国連の国際社会に認められた。短時間で情報源を一から築くだけでなく、世界各国の代表者たちと生涯続くであろう友人も作れた。国連は、世界中から最も優秀な人材が集まる。その世界のベスト・アンド・ブライテストに、同格として扱われた。国連を取材するジャーナリストは皆、同じ扱いではなかった。オフレコで、世界各国からの有力で、有望な人たちと世界情勢について語った。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、日本、ドイツ、リトアニア、ヨルダン、イスラエル、イラク、パキスタン国々など。

これからの私のキャリアを進めるにあたって、国連での働きぶりが通用しない環境と課題に直面することになるだろう。しかし、私はどこにいても、日本人、アメリカ人、そして国際的な専門家と信頼関係を築けることができる。多彩な環境のルールを短時間で習得できる柔軟性も備えている。

私はあなたに世界をもたらすことができる。